遅くなりましたが、7月3日に京都造形芸術大学で開催された「京都のくるわと芸能研究会 第一回シンポジウム」を見に行ってきました。
http://www.k-pac.org/performance/20100703.html
主催者には申し訳ないが、正直もう一つというかイマイチ。
主題は「京都の花街と芸能―生命更新の場―」
ポイントは4つ。
①花街は生命更新の場
②縄文型と弥生型、花街には神と人と交流する2つの型がある。
③花街では芸能と芸道が保存されている
④花街の芸能は依代(この点だけうろ覚え・・・、スマヌ)
ようは、花街は日本の伝統文化の精粋をそのまま、しかも綜合して保存している事。
また各地の通過儀礼、祭りと照らし合わせ、神と人との交流の場といいたかったみたい。
実際に京都花街の立地を聖と俗と分けてみれば、神社や河原に属し、存在した花街は聖に属すものだという考えは面白かったです。。
ただ全体的には、「場」、神との交流の場としての花街にこだわりすぎて、うやむやになった感があります。
一応芸妓=巫女みたいな解釈も言及していましたが、場がありきという感じもありましたね。
私なんかは、どちらかと言うと場より、人・遊女が始まりだと思っているのでアノ意見には賛同できかねます。
実際、遊里の始まりとして―あくまで伝説の域をでませんが―、皇子のの侍女から始まると言われる大津柴屋町、植女の後裔だと伝えられている堺乳守、元興寺造営に際して卑女をおいたの始まりだと伝えられる奈良木辻、壇ノ浦の合戦後、生活のために春を売ることになった平家の官女が元になったと言われる下関稲荷町。
中世以前は始めに街ありというよりも人があって街になったと考える方が自然ではないでしょうか?
今回のシンポジウムも研究過程での発表と言うことなので、あくまで仮定仮説でのお話。
まあ、来年もシンポジウムをするみたいなので、それがどういう風になるのか別の意味では楽しみですな。
ただ一つこのシンポジウムで自分自身ひらめいたこと、再認識したことは、遊里を俗と分けてみれば、実はどちらにも属さない存在ではないかと言うこと。
神社等の神域から見れば、歌舞音曲で遊んでいる現世に見えるし、俗から見れば、べっぴんさんが慰めてくれる幽世に見えるのではないでしょうか?実際河原なんかは地ではく、河でもない場所。
結局、遊びに行くものにとっては、この世の楽園ではなかったのでしょうかねぇ?
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